見上げた空は何色

いろんなことをつらつらと。

夫れ兵形は水に法る。

今年、少林寺拳法の世界大会が行われた。前回の世界大会はインドネシアで開催される予定だったのだが、テロによるインドネシア国内情勢の不安からオープン参加の大会となり多少は盛り上がったものの、明らかな残念ムードはただよっていた。

それが4年前の出来事。私が少林寺拳法を始めて3年目のことであった。

 

私は少林寺拳法を始めて7年になる。過去を振り返ればとてもあっという間だった。
小学生のときは空手をやり中学を卒業するまで続け、高校から始めた少林寺拳法はえらく新鮮なものでものすごく楽しかったのだ。
少林寺拳法では突き蹴り(要するにパンチとキック)や防御のための受けを剛法といい、手首や腕をつかまれたりしたときにかける技(するりと抜いたりイタタとなる関節を決めるものなど)を柔法という。とくに後者は頭で考えてもできるものではなく何回もやって体で覚えるしかなく、はじめた当初はこれが大変で仕方なかった。今では楽しく取り組めているけれど(笑)
私が入部した時、新入部員は私を含めて4人。自画自賛になるが、この代はどの学校にも負けないくらい最高だったと思う。多分これはどの学校のやつも思ってる(笑)
同期二人の経験者にみっちり指導してもらった初期、デビュー戦で大胆に間違えてやらかした失敗、全国の壁の高さ、おまけの遠征の楽しみ。
なにより三年間共に組み、頑張り続けた相方との思い出は今の私を支えるかけがえのないものだ。
原則的に二人一組で練習をする特徴、「組手主体」がある少林寺拳法では、大会の出場種目も二人一組で行う「組演武」、一人で発表する「単独演武」、偶数人 で行う「団体演武」があり、単独演武以外では相方は欠かせないのである。実戦的動きを養いつつ、お互いがお互いを高めるという理念が根底にある。
 私は相方だった彼女が、3年間という長くも短い高校生活の大部分をすごした部活動で組んだ相手が私でよかったのだろうかと卒業してからよく考えるようになった。ただの友達というには軽すぎるけれど、親友という言葉には少し違和感を覚えるむずがゆさ。今思い出せばこれが青春だったのか!と嘆き崩れてしまいそうになるけれども(笑)
もし彼女が嫌だったと言っても、私は3年間の相方が彼女でよかったと思うし、出来ればまた一緒に夢を追いかけたい存在である。ちなみに階級差があると(例えば初段と3級)組めないので出来れば早く二段をとってほしいところである。
タイトルである「夫れ兵形は水に法る」は少林寺拳法の教範にある言葉。
戦いに決まった形は無い。そして水も無形である。水はその地の形に自らの形を準える。戦いもこのように状況に合わせよ。
実は友情もこのように変化していくのだろう。久しぶりに彼女と会ったときに、「またやろう、一緒にやりたい」と言ってくれたことを思い出し、最後にさくら学院の「FRIENDS」という曲を聴きながら今回の〆とさせていただく。
いつまでもライバルでありかけがえのない友達、その存在に出会えたことに感謝をこめて。
(結局最後はアイドルの話になっちゃうのね笑)